悪性リンパ腫治療の記録

最近は思ったことを書いてる感じです。てきとうです。Amazonアソシエイトやってます。

ブログっぽいエントリ

エントリの話

エントリってなんだよって思ってたんだけど、最近目にすることが多いので実際に使ってみた。転職して最強のIT企業に移った人とかが書いてるよね。エントリ。

 

当ブログは、特にすごくもないし、そこまで前向きでもなく、もうちょっとうまく生きていきたいなあと思っている地上を夢見る人魚的なテンションで書いております。いや、そんな綺麗にストーリーになりそうな感じではないか。

 

作品を見る視点の話

小説や映画において、病気などによって別れがやってきてうんぬんというストーリーはそこまで珍しいものではないように思う。

 

先日Amazon prime永作博美さんが出てるお父さんと幼いころに離れ離れになった人の映画を観た。さいはてにてってやつ。

映画評論に精通しているわけではないのでストーリーを語るつもりはないが、今までこういった誰かを失って(失うことに直面して)うんたらかんたらっていう話があまり好きではなかった。なぜなら悲しみの押し売りに感じるし、私はこんなに悲しいけど、頑張ってますよー。っていうメッセージが内包されているような気がして、安易なストーリーだと決めつけていたから。(この映画は内容知らなかったし永作さんが出てたので観た。)

 

でもふと、この映画を観たときに「今までの決めつけは、もしかしたら間違っていたのかもしれない。」と思った。

こういう大切な誰かを失うストーリーを描くのは、作者がその経験を昇華させたくて描いているのかもしれない。フィクションでも着想に至った経験があるはずで、視聴者のための作品ではあるが、忘れてはいけないのは作者(原作?監督?なのかは分からんが)のための作品でもあったのだ。

肉親との別れのような精神的に大きなダメージのある経験や人生の前提が大きく変わってしまう経験を、自分の人生に定着させるのには長い時間がかかって然るべきだった。

誰かが事実を客観的に描くために時間と労力をかけ、事実に正面から向かい合うプロセスの副産物として、映画や小説が生まれて、世に出ていたっていい。

だから、お涙頂戴の陳腐なストーリーを描きたいのではなく、誰もが通るであろう経験を受け入れるには客観的に捉えられるようになるための長い時間が必要である、というメッセージなのだ。と想像力をたくましくすると少し作品の捉え方が変わってきそうだ。

 

起こったこと自体に意味はないだろうけど、受け入れるため、もがくことに意味はあるのかもしれない。

 

うわーめっちゃブログっぽい。陳腐なのはお前の考察だ!という声はお控えください。

まだまだ暑いので熱中症にはお気をつけて。

それでは。